メディアの中の村上春樹

先日のen-taxiですが、09号にしてそれまでの1コインプライスから、いっきに740円まで、鬼のように値を上げてきましたね。

ここで心ない読者であれば、「ざっけんなよ」と舌打ちひとつ。乱雑に本を戻して、立ち去るかと思うのですが、僕は敬虔なリリー・フランキストであり、福田和也イズムの継承者ですので、もちろんちゃんと買いましたよ。740円なんて、僕にとってははした金ですからねぇ。

話がそれてしまいました、も、なにもいきなりズレたところから話を始めたのでそれたもへったくれもないのですが、表題に戻ると、今回の号は個人的にはこれまでで最も素晴らしく充実した内容でした。特にタイトルに書いてある通り、村上春樹についての批評が大変興味深かったです。


「ハルキ・ムラカミの闇降る世界」と題された特集で、中でもジョン・アップダイクがニューヨーカー誌に寄せた批評、「無意識下の地下水脈〜Haruki Murakami 夢幻的新小説について〜」は考えさせられるものがありました。

村上春樹が海外でも高い評価をうけていることは、いまや常識ですが、僕たちはなかなか実際に海外の読者に「どのように受け取られているのか」を知る機会はありそうでなかった。

ましてや、ジョン・アップダイクですよ。ただのダイクじゃない。アップダイクです。確か村上春樹の小説の登場人物も読んでいましたよね。「世界の終わり〜」でしたっけ?
そんな風に村上春樹自身が影響を受けた作家に、直々に批評されるわけですから、いったいどんな書かれ方をしているのかと、嫌が上にも気になりますね。

ま、それを知るにはぜひこの雑誌を買っていただいて、熟読して貰えばと思うわけなんですけれども、僕が個人的に思うのは、村上春樹は、今日本において孤高の存在でありながら、逆に若手作家の「村上春樹化」によって、不利な立場になってきているのではないかということ。

とにかく村上春樹は日本のあらゆる読者に自身の文体をさらけ出しすぎてしまった。おそらく若い作家は、まず文体が村上春樹のそれに似てしまわないように注意するところから始めるほどに、あまりに彼の語り口は意識的/無意識的に模倣されすぎていると感じます。

今回のすばる文学新人賞の「となり町戦争」も一部では圧倒的な支持を得ているようですが、僕は村上春樹の文体のにおいがそこかしこに漂っているのがどうしても鼻についてしまって、モチーフの良さを殺してしまっているように感じました。

先日のデュシャン展で、デュシャンの作品とそのアプロプリエイションの作品が同時に並べられている状況。それが今の村上春樹を取り巻く日本の文学界に近いような気がします。

フリッパーズギターとマッドチェスターだったり、奥田民生とビートルズだったり、音楽の世界では、サンプリングやオマージュといった形で許されている芸術表現が、小説の、特に文体というところでは、まだ上手に解釈が出来ている例があまり存在しないのではないかという気がしています。

一方で村上春樹は「海辺のカフカ」で映画「マグノリア」への愛着を見事に解釈していました。それは文体を取り入れるのではなく、現象をサンプリングするという、不思議な手法によってでした。

こうした、ポスト村上春樹文学の、特に文体解釈のあり方みたいなものが、今後の日本文学におけるひとつの新基準になりえるのではないでしょうか。

などとつい熱くなってしまって、何を書きたかったのか、分からなくなってきました。ていうか、何だよ「今後の日本文学におけるひとつの新基準」って。そんなこんなで収拾がつかなくなってきたのでこのへんでお茶を濁して終わりにします。


ちなみに村上春樹の自宅がおよそ10ページにわたって写真入りで紹介されている雑誌の存在を教えて貰った時、僕はここでも村上春樹を取り巻く状況が変わったということを感じました。

春樹の家はかっこいいな、しかし。

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