晴れ、ときどきシネマ

フランスの映画監督があるインタビューの中で、次のように述べている。

曰く、『映画について書くことは、映画を撮ることと同じことだった』、と。

評論家出身の彼らしい発言だが、ここにはそれに留まらない映画への決死の愛と、そしてたしかな決意表明がある。

映画について、よかった、悪かった、好きだ、嫌いだ、ですませるのは簡単だが、『映画について書くことは映画を撮ることと同じなのだ』とやみくも信じてみること。そしてそれに自覚的であるということ。まずはそこからスタートして「自分なりの戦い方」のようなものが、おぼろげにでも見えてきたらいいな、と思ったりする。

もちろんマスター・オブ・ジェダイへの道は険しく遠いのだが。


ウッディ・アレンの3年ぶりの新作『さよなら、さよなら、ハリウッド』は、少なくとも2時間は映画的世界にどっぷり浸かることを保証してくれる、期待を裏切らない快作。「映画的」であるということがどういうことか、このNY出身の監督は知りすぎるほど理解している。

この『映画的なリアル』と『リアル』をはき違えていて、必死になって『リアル』をフィルムに焼き付きようとする作品は多い。けれど『リアル』を追うほどに、映画というものは、するりと現実から遠ざかってしまうのだ。

『映画的なリアル』を説明するのは難しい。たとえばJLGしかり、黒沢清しかり、ドワイヨンしかり、相米慎二しかり、優れた映画監督が演出する「女性が喜んだときにくるっと回転する仕草」。この喜びの表現こそがきわめて映画的だ、という例をもって、ニュアンスを伝えることができるだろうか。

ウッディ・アレンの映画では、主人公たちの仕草のひとつひとつが確かに映画的であり、また映画的リアルがスクリーンに輝きつづけるがゆえに、現実を遠ざけ「その120分間」を特別なものにしてくれるのである。それは映画が現実に打ち勝つ時間に他ならない。

一方で、『リアル』を探しにお伊勢参りに出かけちゃうヤク中2人組の物語があった。残念なことに、この映画には映画的リアルが焼き付いていたとは言い難い。

思うにクドカンにとっての挑戦、「まだ誰も見たことのない映画(あるいは映像)をつくる」という試みは、「ヤジキタ」において確かに達成しているように思える。しかしながら、その「まだ誰もみたことのない映像」を、当のクドカン以外には特に見たくなかった、という事実を、いったい彼はどの程度自覚しているだろうか。
キャスティングの妙、五月雨式に込められた小ネタの数々、はたしてそれは「映画監督クドカン」への褒め言葉としてふさわしいだろうか?クドカンは、「面白い作品」を作ろうとはしたかもしれないが、「面白い映画」を作ろうとしていただろうか?僕はそうは思わない。それにもし「映画的であること」への挑戦をしないのであれば、ドラマの脚本だけ書いていればいいのである。作品の良し/悪しはひとそれぞれだろう。ただ僕は、クドカンのシネアストとしての無自覚さがとても残念だった。

『タイガー&ドラゴン』がどのドラマより圧倒的に素晴らしく、I.W.G.P以来のスマッシュヒットになりそうな予感がする故に、無理して今、映画監督をやらなくても良いのではないか、と思わずにはいられないだ。

そして寝る前に見たアルトマンのDVD、『マッシュ』の痛烈な映画的リアル、「戦闘シーンなき戦争映画」などを目の当たりにしてしまうと、やっぱりこういうことかなと思ってしまう。

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