ジョアン・ジルベルトの魅力は、
つまりボサノヴァという音楽そのものの魅力と同義である、と。
海、よそ風、おいしい水、夜、乾いた心、あふれる想い。
僕たちはジョアンの紡いだギターの旋律やベースに耳を澄ませる。
そして彼が静かに、振り子のように脚を揺らしながら、
リズムをとる仕草を見つめる。
繰り返されるフレーズに毎日の生活を想う。
そしてそこに潜む輝きを掴み取ろうとする。
その輝きをずっと手にしていたいと願う。
けれど、それはすぐに消えてしまう。
まるでグラスのシャンパンに浮かぶ泡沫のように。
その一瞬の輝きをさりげなく滲ませるからこそ、
ジョアン・ジルベルトの音楽に、心は震える。
ひ る が え っ て
小沢健二が今年つくった新譜は、
『Ecology of everyday life -毎日の環境学』で、
繰り返される日常をゆっくりと暖めていくような音楽だった。
こんど発売されたコーネリアスの新譜は、
『Sensuous』、
つまり(感覚的)という意味だ。
僕は、この2人にはもっとラディカルで、
ポップな存在としてあってほしいんだけど、
彼らは一過性のポップスターとして活動するつもりではないし、
きっとこれからもずっと音楽を続けていく気なのだろう。
この消費至上主義的な日本において、
アーティストであり続けることはかなり困難だ。
それは村上春樹が言った、
「小説家になることは、あまりむずかしいことではない。
小説家を続けていくことの方が、ずっと大変だ」
ということに似ているように思う。
だとすれば、今、75歳になったジョアン・ジルベルトと、
この2人の音楽性が程近くなっていることは、
必然的と言えるかもしれないし、歓迎すべきことなのかもしれない。
だ が し か し
それでも、
僕が感動するのは、未だに、
「薫る風を切って公園を通る〜」と沸き立つように唄う小沢であり、
「花束をかきむしる 世界は僕のものなのに」とクールに叫ぶ小山田であるという事実。
俺はもう27歳で、今は2006年11月だというのに!
iPodで音楽を聴き、HDDレコーダーで録りためたドラマを週末にまとめ見し、
地下鉄の中でもケータイメールをして、ネットオークションで椅子を買う世界だというのに!
「水を飲んだら汗をかくように」、
どんどん自分の中身は入れ替わっていくのだが、
そこにある傾向は変わらないということか。
ひとつだけ確かなことは、
日常の中にしか、輝きはひそんでないってことだ。
ジョアンの奏でるギターを聴きながら、
そんなことを考えた。
Comments [2]
No.1uriさん
『Sensuous』聴きながら、
10年前にこの音楽を聴いても、果たして私は感動しただろうか、
と考え込みました。
SummerBeauty1990の「ラテンでレッツ・ラブ」な感じは
今でも大好きなんだけど。
No.2kajkenさん
聞き手も、ミュージシャンも、同じ時代を生きて成長してきたってことなのかもね。
俺はやっぱり同時代的なミュージシャンが好きだなー。
そこには「俺たち世代にとっての普遍性」があるような。
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