ずいぶん前の記事だけど、三島由紀夫賞作家先生である中原昌也が、
氏にしては驚くほど率直かつ真摯に自身の映画観について述べています。
古い映画を見るということの意義についての文章なのですが、
これはそのまま「文化にふれること」あるいは「思考すること」についての言及でもあります。
今ここにいる自分とまったく関係のないものに思いを馳せるっていうことを、
まったくみんなしなくなってる。例えば過去の映画を観て、歴史的事実をお勉強するということじゃなくて、
まったく今の自分と関係ない人の思いとか、これは何なんだろうって考えることは
みんなしないんだなあ。逆にそこが怖いですね。つまり、自分と地続きじゃなければもうないものとしちゃう感じは
すごい恐ろしいですよ。
<中略>だから懐古趣味ではなくて、常に現在の体験なんです、昔の映画を観るって行為は。
<中略>原理主義的なものでも温故知新でもない、一種の思考実験の場として、
映画を観るという行為があった方が面白いじゃないですか。
現在の自分に与える刺激として。
そういうのが重要なのに、みんなわからないんだなあ。
『中原昌也の映画墓堀人』 en-taxi 20号
いささかボヤキ系になってるけど、ホントそうだよなぁと思う。
『思考のレッスン』にも通ずる精神かな。
つまり即物的なギブアンドテイクを求めすぎてんじゃないのかってことだ。
だから「泣ける」が映画宣伝におけるキラーフレーズだったりするのだろうが、
その涙にあまり意味は無いように思える。
「共感ベース」で消費されていくケータイ小説や、
それに合わせてメディアが変容していくこと(ex.ニコニコ動画)は、
時代の必然なのかと思いつつも、
それに違和感を持ったとたんにおっさんに成ってしまいそうで怖いのも事実。
時間に余裕がある(ヒマを生きる)現状を利用して、
もっと無駄なことを沢山吸収すべきだなと、
そろそろここらで自己正当化。
IQの高い人たちが晩婚化して子供つくらないうちに、
単細胞ばっかりが子供つくっちゃって、セカイが馬鹿だらけになっちゃった
という恐ろしくも笑えない未来の話、
『Idiocracy』は、日本では公開未定だそうです。
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