When you sleep tomorrow 明日、君が眠りにつく時にWhen you sleep/ Shields, Kevin ※対訳適当
And it won't be long またすぐに会えるよ、なんて言っても
Once in a while ちょっとしたら、
When you make me smile 君は僕を笑わせたかと思うと
Then you walk (away) どこかに消えてしまうんだ
何を言っているのか、わかってもらわないと困るが、何を言っているのか、すらすらわかられても困る。この二重の要請に引き裂かれてあることが宣言の宿命なのです。そのような分裂のうちにあり、その分裂を強く意識して書かれているテクストは美しい。痙攣的に美しい。 P.151 街場の文体論/内田樹まさに、自分が生み出す文章がそうあればいいなと想い描きながら、
わー、ぱちぱち。
]]>今、GREAT3が聴けるのはうれしい。
何事も無く自然消滅するのではなく、活動をスタートしてくれることは僥倖である。
・・・それにしても、残念なのは高桑さんが脱退ということ。
バンドの解散、あるいはメンバーの脱退ということについては、
もはや数えきれないほど経験してきた。
奇しくも片寄さんが再始動と高桑さんの脱退に寄せて、こんなコメントをしている。
いみじくもその時、彼が語ってくれたように「バンドとは恋愛みたいなもの」なのかもしれません。 彼の中でそれが終わったことであるならば、たとえ僕が何を言っても顔しかめさせるだけのこと。 僕らは親友として絡まりながら音を奏で、時が流れゆく中で交差して、そして今は離れて行こうとしているのでしょう。
恋愛の終わりは哀しい。だがそれは必ずやってくる。
大切だったものはどんどん消え去り、残ったものも形を変えてしまう。
そんなことを知っていながら「ふり」をしている人たちが織り成す言葉や音楽だから、
こんなにも美しいんだろうなあと思う次第です。
"こうして僕らは少しずつ擦り切れながら、それでも最後は笑えるとこんなになるまで信じてた。"片寄明人(1996)
小さなスクリーンで観る映画は、物足りないっちゃないんだけど、
それでもまとまった時間が持てて、最新作を観れるということは、
この前のめりがちな生活の中で、悪くない息抜きになります。
と、いうわけで、
今回は映画化のニュースを聞いた時から心待ちにしていた、
カズオ・イシグロ著、現代文学の最高峰にしてマスターピース、
「わたしを離さないで」を観ました。
この「わたしを離さないで」という小説は、
文芸好きにとってはほとんど避けて通ることができない
現代アメリカ文学屈指の金字塔的作品で、とりわけ日本でも、
村上春樹が褒める数少ない作家(というか名指しで褒めているほとんど唯一の同世代作家)
であるカズオ・イシグロの代表作として高い人気を誇っています。
この本を100回くらい読んだというヤツが後輩に居ますが、
(僕も流石にそりゃどうかと思うけど)
少なくとも下らない本を100冊読むよりは価値のある行為だと思います。
「ノルウェイの森」の永沢さんじゃないけど、
「『わたしを離さないで』を100回読んだやつなら、俺と友達になれるな」てな感じです。
で、物語ですが、
「ヘイルシャム」というある寄宿舎で生活を共にする男女の心の動きを
そこで育った女性の回想形式で丹念に描写しながら、
存在自体が謎を孕んでいる「ヘイルシャム」の設立目的と存在意義、
そしてそこで繰り広げられる主人公たちの青春時代を、
これ以上無いほどの透明感と、涙が蒸発するほどの絶望感で包んだお話です。
映画自体日本公開前なので、
ストーリーを知りたくない人は、ここから先を読まないようにしてください。
てか、こっからガチで小説のネタバレになっちゃうよー。
ま、ストーリーを知ってから読んだとしても、
この本の魅力はまったく欠けないと思いますが。
*
**
***
ヘイルシャムで生活している生徒たちはいわゆる○○人間な訳です。
彼らは「素材」として大人になるまで育てられている、
そして成人した後に数度の「提供」を経て、
「終了」してしまう運命を背負っています。
つまり最初から運命(=死に方)が与えられている彼らに「青春」が存在するのか、
というのがこの物語の根本的な命題です。
しかしその彼らが持つきわめて純粋な魂、
そこにもしも「愛」が生まれているとしたら、
それは果たして我々が「愛」と呼んでいるものと同じなのか?
そもそも我々が「愛」と呼んでいるものを「愛」たらしめているのは
いったい何なのか?ということを、物語は静かに、力強く問います。
まあ、この小説、読後の遣る瀬なさ/切なさはマジで得難いので、
「その感覚が一体どこまで再現できているのか」というのが
映画を観る上での一番のポイント。
あとやはり、
「「ヘイルシャム」というきわめて夢幻的な世界をどれほど具現化しているのか」という点。
この2点を中心に観ていくことになります。
まず俳優、とりわけ主人公のキャシーを演じたキャリー・マリガンはとても良かった。
なんと言っても彼女がとっても賢そうに見える。
決して台詞が多い役ではない彼女の喋る時の間のとり方、
あるいは「問いかけに対して台詞を発さないときにたたえる表情」を
通じて表現する感情が映画的に重要な役割を担っていると感じました。
そして物語の主人公かつ、狂言まわしとしての性質上、
彼女は常に俯瞰した視点を持つことになるのですが、
小説で言えば地の文で表現しているところを、
抑制された演技とナレーションを通じて示すことが出来ていたと思います。
少なくとも原作を読んでいない人でも、
ストーリーが解らなくなるということのない親切なつくりだと思いました。
彼女が感情を決して表に出さない点が、
局面、局面において運命を静かに受け入れる悲しみを増幅させます。
対称的に、キャシーと想いを通わせるトミー(アンドリュー・ガーフィルド)は、
受け入れるべき理不尽な運命についてのやり切れなさを時おり発露させるのですが、
その叫びにはどこかリアリティがありません。
この奇妙に平坦な咆哮は、
「哀しいこと」や「嬉しいこと」を表現しきれないコミュニケーション不全と、
彼らの持つ宿命そのものが持つ痛々しさに満ちていて
それがこの遣る瀬なさ/切なさと結びつきます。
ちなみにアンドリュー・ガーフィルド君は
「ソーシャル・ネットワーク」で主人公に裏切られた友人役の彼です。
素晴らしい俳優です。
ヘイルシャムの映像化については、
イメージしていた世界が見事に忠実に再現されていました。
「クリーンすぎる世界にこびり付いた狂気」が、
画面上のそこかしこから漂ってきて、
美しいけど喉の奥が息苦しくなるような異界の空気を作りだしていました。
序〜中盤のヘイルシャムのシーンは、超要約的に進むので、
「ノルウェイの森」同様、
小説が丹念に描いていた機微が100%映画化されていないという点に
不満を感じる原作好きも多いかもしれません。
しかしながら、原作で重要だったエピソードはちゃんと盛り込まれています。
で、ここから映画の感想からは若干逸脱するのですが、
この物語がもつ「切なさ/遣る瀬なさ」の源泉は一体何なのかという話です。
これは一概にまとめきれるものではないけど、
「思春期を通して成長した男女間で育まれる関係は特別なものであり、
同時にそこで生じた感情には大抵の場合行き場がない」
ということなのかなと思います。
誰しも思春期を過ぎて愛を語れるようになる頃には、
あの頃抱いたような尊い感情は彼方に過ぎ去っている、という事実があります。
補助線を引くと、小説「1Q84」の青豆と天吾の関係は、
本作のキャシーとトミーの関係に非常に似ています。
1Q84でもこの映画でも、2人が手をつなぐシーンが印象的に使われていましたが、
手を繋ぐという行為がこの「尊い感情」を表現する鍵です。
ノルウェイの森における直子とキズキの関係、というのもこれにあたります。
(ノルウェイの場合は、その2人の関係以外の部分での性描写の露骨さや、
ワタナベを中心に書かれていることから見えにくくなっているけど)
そしてこのような「尊い感情/関係」はこれまでの文学作品では行き場のないものとして、
切ない結末を迎えてきました。
直子もキズキもトミーもキャシーも、みんな幸せな結末ではなかった。
だからこそ、2010年に世に出た1Q84 BOOK3が肯定し、
奪還したものは大きかったのだと思います。
それこそが作家、村上春樹が肯定した「世界」ではないでしょうか。
この映画の結末がどこか物足りなく感じるのは、
「1Q84 BOOK3」以降を生きる我々にとって、
物語の結末があまりに予定調和的であり、そこを突破していないことが、
ことさら再確認できてしまうからに他なりません。
物語を煎じ詰めて解りやすくしていくと、
本来その小説が持ち得た「主題ではない大切なもの」が
どこかへ消えてしまう場合があります。
今作の映画化では、原作に忠実であるが故、
主題のみをストレートに表現した結果、
やや矮小化されたような印象を持ってしまいました。
ミニシアター系の「小品」としてうまくまとまっていたという感じでしょうか。
ただし、映画「ノルウェイの森」ほど賛否両論にはならないのではないかと思います。
特に「否」というほどの実験性はないので。
(原作者のカズオ・イシグロ氏自身も、製作総指揮に名を連ねているようです)
原作好きと、映画を観ることでダークな気持になりたいときには、オススメです。
ものすごく感動したとか、特に大好きな映画、というわけではないけど、
心に引っかかるものがあったから。
と、いうのも、僕がこの映画を観たあと、余韻に浸りながら
機内にあった「GOETHE(ゲーテ)」という雑誌をペラペラめくっていたら、
ちょっと看過できない、この映画についての解説が載っていたからだ。
うーん、そうかなあ?
少なくとも僕には共感できる部分もあったんだけど。
ということで、いくつか考えられる仮説がある。
1残念ながら僕は「GOETHE」が対象としている様なスマートでエリートなビジネス・エグゼクティブじゃなかった。
2この映画は共感した/しないで楽しむべきではなく、史上最年少億万長者の成り上がり物語として楽しむべき。
3「GOETHE」誌に寄稿している映画ライターのセンスがない。そもそもなにがゲーテだ、リア充か!
いずれにせよ、ちょっとキーボードを叩いて頭を整理してみる。
まずこの映画のストーリー。
言わずと知れたFACEBOOK創業者の成功までの道のりを描いた、実話に基づいた物語である。
主人公は天才的なプログラマーで、ハーバード大学在学中に、ふとしたきっかけから、
リアルコミュニティをSNSに実名で落とし込むシステムを創り上げる。
このクールなサイトは、東海岸の大学を中心に瞬く間に広まっていく。
それにしたがって、そのアイデアや共同開発についてのいざこざが訴訟問題に発展する。
このサイトが巨大化するスピード感と、そこに渦巻く人間模様、その遠心力の強まりを同時に描き、
天才であるが故の主人公の孤独をあぶり出していき、しずかに終わる。
そんな感じの話です。
僕がこの映画を見る上で一番のポイントだと思ったのは、
FACEBOOKをつくるきっかけが、付き合っていた彼女にフラれたところから始まっている点。
これが実に映画開始5分ぐらいなんだよね。
でも実はここが一番の見せ場。
その後サイトがどんどん大きくなって、ユーザビリティを高めたり、
資金を調達したり、仲間を裏切ったりのシーンでは、主人公はどこまでいってもクールに描かれる。
主人公ザックの心が一番大きく揺れるのは、この映画冒頭の5分のところなんです。
あとはずっと死体の心電図みたいに一直線。
キープ・オン・クール。
そしてもう一度だけ、映画内でザックの心が大きく反応するのが、
FACEBOOKを立ち上げた直後に、冒頭フラれた彼女と酒場で再び出会うシーン。
ここでせっかく再会するも邪険にされたザック、
フラれた直後に彼女の悪口を実名でブログに書くという最低の行為をやっているんだから当然なんだけど。
大人しく引き下がればいいのに、言っちゃうんだよねこの一言を。
「ねえFACEBOOKって知ってる?(あれ俺がつくったんだ)」
このシーンになんてったってグッときた。
そう、そうなんだよ。
ここで言わない方がいいことをいっちゃう感じ。
いま自分がどうしてるかなんてわざわざ元カノに言わない方がいいのに、
でもつい言いたくなってしまうこの感じ。
ザックはフラれた彼女に自分を認めさせたくて、
遠回りして遠回りしていつの間にかFACEBOOKというオバケサイトを構築していた。
なんて熱効率の悪いやり方だろう。
たぶんゲーテ読者なら、そんな風にして女の子と接したりはしない。
ボート部の連中もそんな回りくどい真似はしない。
でも時として、そんなやり方でしか伝えることのできない相手がいる。
そしてそういう風にして放ったメッセージは全然届かない。
これがもう笑っちゃうほど届かない。プロトコルが違うのだ。
同じような言語で話しているのに、プロトコルが完全に違っちゃっている。
ますます齟齬は深まる。
だから仲間同士が盛り上がっていても、にぎやかなパーティが続いても、
どんどん寂しい気持ちになっていく。
監督のD・フィンチャーはパーティ、クラブで盛り上がっているシーンを撮らせたら流石に巧かった。
そう、パーティが華やかに描けているからこそ、
パーティを楽しめない人間にとっての孤独感がきっちり再現されている。
この映画からにじみ出ているザックの悲しみ。
僕はこの主人公を非人間的とは思えないし、億万長者だから羨ましいとも思えない。
ただ、同じ男性として、そのあまりの不器用さに親しみをおぼえるだけです。
How does it feel to be of the beautiful people 優雅な人々の一員になってどんな気分?
How often have you been there あそこへはよく行くのかい?
Often enough to know よく分かるぐらい頻繁に
What did you see when you were there その世界でいったい何を見たんだい
Nothing that doesn't show そんなそぶりはまるで見せないけどBaby you're a rich man ベイビー、きみは金持ち
Baby you're a rich man ベイビー、きみはリッチだぜ
そして機内で「GOETHE」を読むような男にだけは決してなるまいと誓った。
"Baby you're A Rich Man" Lennon/McCartney
考えてみれば物心ついてから初めての村上春樹長編小説の映画化である。
ツイッター上で徐々に明かされる「ハルキとトラン監督の邂逅」や、
緑役に抜擢された水原希子の「情熱大陸」、
その他さまざまなメディアで精力的に露出される情報によって完全に、
「ねえ、ワタナベくん、いま固くなってる?」
「コカコーラの瓶ぐらい固くなってるよ」状態。
先週の名古屋出張でつい抑えきれなくなり、
文庫版の上下を(家に帰ればあると知りつつ)買い
車中で通読してしまう暴君ぶりで、
これはもう公開初日に行くしかないな、ということで、
小学校来の友人と、男3人連れ立って、土曜日の新宿バルト9に繰り出した。
感想の前置きとして、
よくある「映画版と小説版と比べてどっちが優れているか」問題は
そもそも僕の中では意味を成す問いとは言えなくて、基本的には原作至上主義。
その上で、映画の作り手たちがどこを切り取り、どこをクローズアップし、
どこを創作し、どんな音楽を付け、誰に演じさせたか、という点で楽しむことにしている。
あとよくある「原作読んでないとストーリーが解りにくいよね。不親切よね」という断罪も、
あまり意識していない。
ていうかそんなん言うなら原作読めと、
映画を懇切丁寧に説明してくれる"エンタメ"としか認識していない人は家でテレビでも観ててほしい。
そんなスタンスで観ています。
その上で、とりめなく感想を書いてみますね。
※本当にとりとめないです。注意!
あとネタばれ(?)も。
まず素晴らしいのが役者陣で、
なんといっても松山ケンイチの村上春樹ぶりがすごい。
緑にあなたのしゃべり方好きよって言わしめるだけの説得力がある。
ハルキ言葉を違和感無く(少なくとも僕はそう感じた)操れる人がこの2010年に居たとは...!
あと目線、というか目の奥への光の貯め方で演技ができるんだね、この人は。
朴訥としてて、
感情を抑圧した良い演技だった。
菊池凛子は圧巻。
ビジュアル的に、直子は本当に美しい人というイメージ(強いて言うならちょい昔の麻生久美子か...?)
ってのが原作読み的にはあったので、正直菊池凛子どうなんだろうと思っていたものの、
最初からはかなげでゆっくりと混乱していく様子、殊更声の演技が抜群に巧かった。
この人自身が村上春樹ファンで自作のオーディション用のビデオを監督に送りつけたというだけに、
やはり役を演じる上での覚悟が違う。
松山ケンイチがどんな役にもフラットに構えているのとは対称的に
自身の直子像があって、その理想に少しでも近づこうとするストイックさが伝わってきた。
阿美寮での草原の長回しシーン(直子がワタナベにキズキとの関係を告白するところ)は
鳥肌が立ったし、段々目を背けたくなるような痛々しい美しさが宿っていて、
それはまさしく直子そのものに見えた。
ただ二人の関係を示す冒頭の30分ぐらいは、やや性急にすぎたよう。
ワタナベが直子を愛するようになっていく過程が、あまり丁寧に描けてなくて、
東京で再会した親友の恋人とすごい勢いで散歩しているって印象。
20歳の誕生日のシーンはとてもよくて、
原作でも雨が降ってたことを思い出させてくれた。
そして、直子が東京から去った後、その空白を埋めるように現れるのが緑な訳だが、
これがもう、最高にクールで可愛くて、ファッションもどストライクな上品系60'sで
完全にノックアウトされました。
水原希子は、僕が14歳で初めて小説を読んたときの緑のイメージそのもの。
てか、夢で出会った初恋の人に会ったような感じ。
演技力?そういう次元じゃなくて、
19歳の女の子のリアリティがあって、輝いていてとても素敵な登場シーンだった。
緑に関して言うと、緑の自宅でお昼をつくってもらうシーンがとても良かったのだけど、
原作で印象的な火事を見ながらキスをする場面が割愛されていたのは残念。
緑がデタラメなフォークソングを歌って、楽しくなって、
そのあとぼーっとしちゃうってところを映画で見てみたかった。
で、この家のシーンもかなり長回しで、部屋の中で歩き回りながら、
緑の苦労話をワタナベが聞くんだけど、ここのショットはちょっと動きがありすぎて
若干気が散った。たぶん部屋に入る光の感じとか、日本家屋の感じを
監督は映したかったんだと思うけど。とはいえ絵的にはとても奇麗でした。
その他キャストもおおむね満足。
永沢さんがシンバルを打つシーンの笑っちゃうようなかっこよさ。
原作にはなかったキズキと2人で桃を頬張るという回想シーンの絶妙な塩梅。
ハツミさんが怒るところの半端ない怖さ。
レイコさん、ちょっと美人すぎるけど、引き語り「ノルウェイの森」が超絶巧くてびっくり。
(レイコさん役の霧島れいかは歌が苦手なばかりか、ギターさえ弾けなかったという話)
季節が秋になり、そして冬を迎える準備をするに従って、
映画そのものが出口のない迷路に迷い込んだような重い感触を持ち始める。
このあたりから物音も立てられない、口の中のポップコーンもとかして食べざる得ないような
身動きの取れなさが観客にも浸透していく。
小説的にもワタナベの孤独がクローズアップされていくあたりなんだけど、
この辺の小エピソードの連なりはとても良かった。
そして直子の責任をとるということと、対照的に緑に惹かれていくところの葛藤。
いや葛藤というほど表面化しない、自分に嘘をついているのとも違う、
答えが見えないままに、静かにもがいたり黙ってやり過ごしたりしているワタナベの状況は、
映像化されることでよりストレートに伝わった。
もしこの映画に共感のポイントがあるとすれば、この部分だろう。
緑のお父さんが死んで、しばらくあとにバーで再会するところ。
「ねえ、私が今何を考えてるか分かる?」という質問に対するワタナベの発言で、
緑がキレるという脚本上の省略はとてもうまいと思った。
彼女がとても大事にしていて、ワタナベと共有できている(と感じていた)部分なだけに、
ここでのワタナベの返事ミスは痛恨。
そしてここで、緑がいかにワタナベのことを支えとしてきたが一気に伝わった。
直子死後のワタナベ放浪シーンは、音楽の使い方、景色の撮り方、松山ケンイチの演技、
どれをとっても文句の付けようがない。
そう、音楽はレディオヘッドのジョニー・グリーンウッド(There will be bloodでも素晴らしかった)
が担当していて、重厚なものから60'sの空気感、オーケストラチックなものまで、
映画の雰囲気にかなり高いレベルでマッチしていた。
(「物語に」というよりは「物語上のトラン監督のビジュアルに」マッチしていた)
そして最後のレイコさん訪問。
ここは原作読後も「なぜ2人はセックスをしたのか」ということを論じられる場面だけど、
レイコさんのトラウマが映画ではごっそりカットされているため、かなり理由が見えなくなってしまった。
本来、あのシーンでは直子のために2人で片っ端からビートルズを歌うという儀式があって、
その直子への思い出を抱えたまま抱き合う、というあたりに、当時の僕も
そういう形のセックスがあり得るのかと衝撃を受けたので、そこがないのは致命的。
残念ながら「ワタナベ、目の前の女にその場その場で優しくしすぎ!」という見え方しかしなかった。
で、ラストシーンの緑との電話で、
ワタナベに「愛している」と言わせたのは英断だと思う。
原作では口に出してなかったけど、映画ではワタナベがはっきり言ったことで、
緑が素敵な表情を見せてくれたし、この本にあった「救い」や「前向きさ」を
映画的に分かりやすく見せてくれてよかった。
以上。
というわけで、
まだ見てない人に2つだけ忠告があるとすれば、
やはり原作をもう一度読み返してから行った方がいいよってこと。
映画版「ノルウェイの森」を観るということは、ある意味自分の記憶と対面するような
不思議なタイムスリップ感があるんだけど、そこに備えてストーリーをもう一度
2010年の自分の中で消化してからの方がすっと観れると思う。
それともう一つ。
初回限定版のレコジャケ仕様のパンフレットはかっこいいので700円の使い道に迷ったら買った方が良いと思う。
* * * * *
そして僕たちはバルトを出てから3丁目に流れ、
愛する緑の為にトム・コリンズを注文したまでは良かったが、多いに賞賛し、激論し、
酩酊し、最終的にはカラオケで「ノルウェーの森」を熱唱してしまったのは、
やりすぎだったと言わざるを得ない。蛇足でした。
前職時代は実にノリで9月や3月に
気ままなバカンスをとっていたので、
今の仕事に移ってからこの「ドお盆休み」に休暇をとることが、
非効率的/非経済的に思えていたのですが、それにも慣れてくると、
皆が夏休みの時期に夏休みをとるというのも、悪くない気がしてきます。
結局、大人になるってそういうこと。
僕の友人、ってか先輩で、
夏になると高校野球(それも予選から)ばっかりみてる人がいますが、
そのまっすぐな青春感、永遠のやんちゃ短パン感は正直うらやましくもある。
まあ、それはそれ、人は人、
ボートはボート、ファックはファック(©村上春樹)でいいとして、
いかに大人ぶりつつ現実から逃走できるかってことの方が大事な訳で、
そこで今回、不自由な夏休みを過ごすために準備したのは以下の品々。
・スターウォーズ 全6エピソードのDVD
(こないだ衛星でやってたやつハイビジョン)
・池波正太郎先生のダンディなエッセイ5冊
(図書館で借りた)
・ツタヤコミックスの漫画 30冊
(追っかけきれてないところを大人借り)
・en-taxi最新号
(買って読まずにとっといた)
・トマス・ピンチョン「メイスン&ディクスン」
(この本を欲しくない本好きっている?)
・Digのポッドキャスト
(ほっといたら貯まってた)
・フジファブリック「MUSIC」ほか
(涙なしには聞けぬ名盤)
・ジョギングシューズとendomondoアプリ
(一応。走るかどうかは気分次第)
このあたりを持ってって
とある山荘で温泉&リラクシングとしゃれこもうと思ってます。
今年の夏は、ひとつもロックフェスに行けなかった。
ビアガーデンにも行ってないし、お決まりのアバンチュールもなし。
だけど、涼しい場所でじっくりゴロゴロ過ごしてやると決めて、
それにむけてちまちまと準備をしている今が、とても楽しい。
まさか彼のライブを見れる日が来ると思っていなかったので、
当日までなんだかふわふわした気持だった。
公園通りを歩いてNHKホールに入ってからも、浮き足立っていた。
物販の列に並んでいる、若いのか、
あるいは時が止まったままなのか分からない女の子たちを横目に
コンサートホールの椅子に座った。
会場には控えめな音で、意味ありげなBGMが流れていた。
一階席、前から3列目のど真ん中。
こんなに良い席でライブを見るのも生まれてはじめてだった。
暗転して、暗闇の中、『流れ星ビバップ』のイントロが流れた時、
あまりにパーフェクトな演奏と歌に、思わず、
本当にそこに本人が居るのだろうか、と疑ってしまった。
彼は確かにそこにいた。
ワンコーラス歌い終えたあと、懐中電灯のような小さな明かりに照らし出された彼は、
少なくとも僕の目には、まったく変わっていないように見えた。
まるで亡霊のようで、NYCゴースト&フラワーズだなと思った。
その亡霊の彼は、NYで遭遇した大停電の話をした。
暗闇で聞く音楽の響きに心を打たれたという話だった。
普段気にも留めない「ありふれたもの」が、ほんのちょっとしたことで、
「まったくの別もの」に変わるということがある、そんな話だった。
そして再び暗転し、「流れ星ビバップ」の続きが歌われ、大きな拍手。
次に「僕らが旅にでる理由」が奏でられた。
はじめのヴァースをそのまま暗闇の中で歌い、最初のサビにさしかかったその刹那、
ステージを照らす全ての明かりがバチッと点灯し、眩しい光の中で、
小沢健二がその姿を現した。
今度は亡霊じゃない、生身の人間になっていた。
見事な演出だった。
すげー、本当にこの人帰ってきたんだ
そこで、僕はようやく地に足がついたような感覚になる。
この奇跡のようなライブを心から楽しもうという気分になった。
彼が「LIFE」期に歌っていたのは、
「楽しい時間や大切に想っていた人や気持は、いつか消えてしまう」ということ。
それでも楽しいフリをし続けなきゃいけないんだってこと。
今回のライブで、彼は、その「楽しかった時間」そのものが、
まさにあの90年代、「オザケン」が在った時代であり、
彼方に消え去ってしまったその時代に、2010年から思いを馳せるという構造を
自身の歌詞によって想起/反復させるという、時限爆弾的な離れ業をやってのけた。
たとえば「ラブリー」の歌詞である「Can't you see the way it's a」 を「完璧な絵に似た」と書き換えた意味は、
やはり「美しかった過去」を表しているということだろう。
つまり「こんなステキなデイズ」が、「目の前に」あった90年代から、
「完全な絵に似た」過去になったことを、小沢健二は僕らに教え、そして歌わせたのである。
「ローラースケートパーク」から「東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディブロー」の流れと、
「天気読み」〜「戦場のボーイズライフ」〜「強い気持ち強い愛」の流れがとてもよかった。
「ローラースケートパーク」と「天気読み」はLIFE期の曲に合わせて編曲していて、
それが違和感なくはまっていて見事だった。
「天使たちのシーン」はメロディを変える事で新しさを出しつつも、
13分以上という長尺を楽曲の強さと力強い歌唱で聴かせていて、これまた見事だった。
僕が開演中ずっと頭の中で思い描いていた、
「これはかならず歌うだろう」的な、重要な曲は全て演奏された。
逆に、そうではない曲(無駄な曲?)は1曲たりともなかった。
徹頭徹尾、趣向がこらされ、
どこまでも自信過剰で、どこまでもシャイ。
ここまで期待値を期待以上に上回るライブをしてくれた事が純粋に嬉しかった。
きっとオザケンが社会活動家になってしまったとか、額が広がってショックとか、
いい歳してなにやってんだこの人という輩もいるだろう。
そう思う人がいても不思議はないな、と思う。
仮に今回のライブDVDが出て、メディアで取り上げられたとしても、
バッシングされたりするかもしれないな、とすら思う。
なにより、僕は彼の音楽を好きすぎるし、
あまりにも彼の居た時代を生きてしまった。
けれどきっと会場には同じ様に感じた人もいたはずで、
そういう人たちと話がしたいと思いました。
もうこんなライブは2度と体験できないだろうな。
いや、すべての「こんなステキなデイズ」はもう2度と来ないのだけど。
最近読んでいるのは、絲山秋子です。
]]> それがこの作家を知る最初の作品として良かったのかどうか分からないけど、これはかなり良いです。
この一冊でこの人が信用に足る人物だということが一発で分かる感じ。
例えば酒井順子のエッセイを読むと、どの本もたいてい面白いんだけど、
「負け犬とか良いつつ、結局自分のこと好きだよなー」って感じがする。
ちょっとだけ、いやかなりセーフティな側から、
センスよく呈示される「ほんとう」が、
若干鼻につく感じってありませんか?
顔もまあブスじゃないし。
そこいくと絲山さんは元INAXの営業である。
でもって見た目もちょっとダサい。
だけど、その一回諦めたタイミングが数段早い感じが、
彼女の人間的な深みと信頼感を作り出している。
そのクールさには好感がもてます。
そして小説やエッセイに登場する音楽のセンス。
特に『ラジ&ピース』で、特にこれといった取り柄もなさそうな
30代ラジオパーソナリティの主人公が地方局で「キラ☆キラ」的な番組をやりつつ、
選ぶ音楽、その激渋ロックぶりのかっこよさ。
同じ女流の角田光代が元カレに教わった感を消化できていないのに比べ
数段深いと感じました。
僕の中で女流を読む基準が今ひとつ定まらないので、
かなり感覚的な好き/嫌いになってしまうけど、
今のモードには絲山さんが合っている気がします。
本文を読むと分かるのですが、坂本さん曰く
「解散の理由は結局、「空洞です」の先にあるものを見つけられなかったということに尽きると思います」
ということ。
そういう高潔な理由でバンドが解散するというのも、彼らが活動した
90-00年代までの貴重な価値観なのではないかという気さえしてしまします。
去年の11月にふと思い立って見に行ったSTUDIO COASTが、
結局、僕が見た最後のライブになってしまいました。
また、個人的には、
前職で勤めていた会社で所属していたチームの解散と、
まったく同じ日に解散、という点にも何か時代の節目を見たようで、
感じるところがありました。
ひとまずは素晴らしい音楽を作り続けてくれたことに感謝しつつ、
しばらくは彼らの音楽に浸ろうと思います。
蛇足ながら、
ひとつの音楽に関する文章の中で、
僕自身はこの「空洞です」について書いたエントリーが
わりと気に入っているので、ヒマな人、よかったら読んでみてください。
↓
衛星軌道の孤独 *『空洞です』 ゆらゆら帝国
The Beatles [USB]
悔しいが、欲しい。
朝、戦場で流血した夢かなんかで目さめると、
生暖かい血だと思ったのが鼻に詰まった水っていう。
ごほっごほって吐血した感じでね、
誰に見せるともなくティッシュに包む的な、
それぐらいの勢いで止まりません。
なんかティッシュがベッドサイドに常備っていうのもね、
全然エロじゃないっていうか。
かといって当然エコでもないっていう。
誰かの暴力的な一撃でもって、
この曖昧模糊とした感覚を取り除いて欲しい、
そんな夢みたいなことつぶやいてしまう最近の私です。
ラジオのIPサイマル放送が始まって、
ようやく世間もラジオ再評価の機運が高まったのは嬉しいかぎりです。
radikoが素晴らしいのは、番組表から選局できるところ。
この感覚がラジオにはかなり新鮮でした。
変わらず応援しているTBSラジオも、LIFEのジュンク堂、紀伊国屋、
タマフルのバルト9進出と、より多角的に町に浸食してきていて、
どうやら引っ越すとしても新宿を拠点から外す訳にはいかなそうな状況です。
あと年末にゆらゆら帝国とライムスター、
年明けてからは、サニーディ・サービスとトラッシュキャン・シナトラズ、
そして先日はAC/DCのライブに行きました。
AC/DCは一緒に行った人たちがみんな赤いピカピカ光る角を買っていて
「今夜、奥さんにつかっちゃうぞー」みたいな感じで面白かったです。
どう使うかは知りませんが。
今年はフジもメンツが良さそう。
特にSTARSの元バンド、Broken Social Sceneは
在米中に見れなかったので、単独でも行きたい!
先日またしても香港に行ったのですが、
ANA機上の音楽プログラムで久しぶりに聴いたLOVE PSYCHEDELICOが
思った以上に良かったのは、ちょっとした発見でした。
リビングからテレビをすこしづつ遠ざけて、
ラジオと音楽の場所をつくっています。
花粉は本当にだいっ嫌いだけど、
日差しも風ごこちも音楽の鳴り方も、女の子の服装も、
このあとに来る季節が一年のうちで一番好きです。